ブロードウェー百年(5)〜新しい息吹〜を観る。

昨日に引き続き。1960年代以降は「ロック」という音楽の台頭が逆にブロードウェイミュージカルにとっては低迷の原因ともなった、という構造。しかし考えてみれば割と簡単に思い当たるというか、シンプルな話ですね。ビートルズしかり、メインストリームに躍り出たロックンロールのパワーとは対照的に、時代に取り残されたミュージカルという始まりでした。
そんな中、社会の「内部」を取り入れたタイトルが続々と登場するのは、まさに時代の流れと隣り合わせに進もうとする動きを反映していてかのような。面白いのは、どのミュージカルも評価が分かれたり賛否両論だったり、とにかく最初から大成功というのが無い事。今まで夢を与えてくれたミュージカルの中身が、中流階級の悲喜こもごもを描いたリアル志向に変わっていく…やはり当初は受け入れられない部分も多かったのでしょうかね?
しかし同時に、そのリアルさ・複雑さがミュージカルに斬新な多様性をもたらしたのも事実。まずは『ウエストサイド・ストーリー』が「殺人」という概念を初めて取り入れたというのは少し驚きました。人が死ぬ、という要素がそれまでのミュージカルには無かったんだなー、と。シェイクスピアとロマンチックなメロディと当時のアメリカ社会が抱えていた問題・暗部の融合、確かにセンセーショナルな出会いです。
社会との流れを取り入れる要素は段々と極まっていき、ヒッピー姿の若者達がロック全開で観客席に飛び込んでいったり、結末のあいまいな物語が登場したり、人肉パイで笑いあう、大層ブラックな作品まで登場する進化具合。非常に先鋭化してますわ。
70年代に入ると、不況という要素が加わり、ブロードウェイ自身がヒット作を待望していた…という、ロックの台頭に続く危機的状況に。そこでとうとう『コーラスライン』が登場!かなり大規模なプロジェクトだった様子。大衆受けも良く超ヒット作になるも、作者のマイケル・ベネットはもっと内面の深さを読み取ってほしいと願うその気持ちが切実です。

ベルトコンベアの商品のように扱われるダンサー達の過酷な状況というのは、現代においてもそうそう変わってない筈。それでも!この作品を最後列で見た男性が、その足でダンススクールに行って一言、「コーラスラインで最後に踊っていたナンバーのステップを教えてくれ」って。二年後その男性は『コーラスライン』のオーディションに合格、ダンサーの道へ。やっぱり何かやりたくなるんです、観ると。
それを踏まえて、つい先日観た劇団四季との舞台を思い出すと。大衆としての自分(観客)と、演技者・表現者としての自分がまさしく両立していたなぁと実感しました。最後選考の場面で起こった笑い、冒頭の『アイ・ホープ・アイ・ゲット・イット』で何故か流れた涙、面白さ(滑稽さ)と現実の厳しさとフィナーレ・『ワン』の華やかさ。全てがリアルな空間だったと思います。
コーラスラインが「N.Y、ブロードウェイ」という場所を復活させ、また更に大きくしていった程の作品であるとは思ってなかったのですが、まさしく時代に求められた作品だったんだろうな、と。そして、もう一つのラインとしてボブ・フォッシーの名前が。『シカゴ』の映画によってもっと近年の人かと思っていたら、シカゴ初演が75年と、全くの同時期とは知りませんでした。うーん物知らず。後世への影響という点では、フォッシーの振り付けなどが非常に大きいのだと再確認。


うーん今日のは凄く興味深い内容でした。別世界を見せてくれたミュージカルが現実を映す鏡となっていく過程が60年・70年代にあった、と。そして次が最終回、80年代に入ってとうとうあの人物・あの作品群が登場するんでしょうね。何故でしょう、非常にワクワクしてきましたっ。ブロードウェイ史上最大のヒットはロンドンからやって来る、筈!